| あらすじ |
日本民族は昔から米一粒を大切にしてきた。殿様の時代になっても、税金に当る「物成」(ものなり)は米であった。それで当時田を開くことを「開発」(かいはつ)と言って、民が願いでて開くのが「註進開発」(ちゅうしんかいはつ)殿様からの命令で開くのが「差紙開発」(さしがみかいはつ)と言い、いずれも成功の上は施工者に「辛労免」(しんろうめん」と称し米を下された。土川の嵯峨八兵衛は百姓で一代で「苗字帯刀」を許され大分限(大物持)になった。辛労免を何度も貰っている。その中で文政12年(1829)から数年、神宮寺村内の「舟戸」(ふなど)で開発にかかり「松倉水門により水引通し、山根通り新堰立天保4年まで4ヵ年の間云々」と働いたが、間もなく巳年の凶作となり延びていたが後他の人の働きで成就したので、これまでの八兵衛に対する辛労免をお願いするという願書の控が残っていて、ここでも貰っている。この時「八兵衛大明神」という石碑を建てたということが伝えられている。そこでたずねたが見当たらず、水門取入口一帯は、近代式の工事が施され、新しい「頭首工完成記念の碑」が高々と建っている。八兵衛の石碑はないが、ただ当初元禄の頃水門の「人柱」に立った女人の石碑が立っていた。
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